月別アーカイブ: 2016年5月

練習だけしてても、そりゃダメなんですわー。

作品が100個あるって書いたけど、全部が3分とか4分とかってボリュームではないです。短い作品もありますよ。2〜3年前はVineで公開する仕事が多かったので、Vineって6秒の動画だから6秒の映像も20個近く作ってます。そういうのもあわせて100個ね。

短いものが長いものよりランクが下だとは思いません。
撮影するコマ数は少ないですけど。
短いものには短い世界での成立のさせ方があったりするわけですよ。

短いものばかりを作ってても長いものは作れるようにはならないですけど。

そうそう、ピクサーの本にも書いてありましたよ。

『ピクサー流 創造するちから』という本です。
分厚いですがおすすめ。超おすすめ。

Amazon『ピクサー流 創造するちから』

ピクサーの社長であり、いまのディズニーアニメーションスタジオの社長であるエド・キャットムルさんが書いた本なんですが、アート的な作業をちゃんとビジネスにするにはとか集団で作っていくにはどうしたらよいかという事がこれでもかと書いてあります。
ハウツー本みたいに方法論だけを書いたものではなく、キャットムル氏がこれまでの経営の中でいかに悩んで試行錯誤してきたかという奮闘記なので、読んでて面白いです。会議の席順が大事だと気づいてから「この机をいますぐ捨ててくれ!」って叫ぶくだりとか、イイです。ピクサー作品の脚本がなぜあんなにも優秀な点数を出し続けているのかも作り方について書かれています。

その中にあった話。ピクサーは毎回、本編の前に短編を発表していて、そこであたらしい技術を試したり若手を起用したりしてるんですが、それをやってて結果として分かったのは「(監督や脚本家には)短編を何本も作っても、長編を作る力にはならない」ということでした。

これは短編がダメということではなく、短編と長編はまったくの別物ということ。
ストーリー展開・カットの間やテンポ・ストーリー説明の量・台詞回しなどなど、すべてが短編と長編では適したバランスが違う。

つまり、長編を撮りたい人は、長編を撮りにいくしかないんです!
短編で練習をしてもいいけど、練習はあくまで練習なんです。

漫画を描きたい人は、1枚イラストの練習ばかりしていてもダメなんです。

バッティングの練習だけしてても、それは試合ではないんだよ。

本番を迎えな!

練習ばっかしてないで!

あー、だれに何を言っているのわからないけど。
そういうことよ。

あ、それと、本番を迎えるというのが一番成長します。
練習効率がハンパなくいいです。

これはピアノの練習をしていた兄貴が言っていたんですけど、

発表会に出るって決まったら、練習の質が変わった。
あと、発表会でしたときの失敗とかがすごく意識されてて
普段の練習とは全然ちがう。
成長の度合いが違う。

この場合の本番というのは「人に聞かせる」というのが大きいかな。

人に見せないと、成長しないよ。
友達にでもいいし、YouTubeでもいいし、路上でもいいけど、
何かつくっているなら人にみせないとダメですよ。

これは本当にダメですよ。
人はひとりでは成長しないからね。残念なことに。
ひとりで成長できたらいいんだけどね、どうにもできないんだよ。

無様な自分をさらすことになるけどね、
人に見せて、リアクションをもらいなさい。
良いリアクションも悪いリアクションも、全部自分の血と肉になるので。
食べ物はよそからとってくるでしょ。
自分の肉を食べていてもそれは栄養摂取ではないのよ。

あーなんで、こんな厳しいこと書いてんだろ。
もういいや、書くことストップ。

通販でカラーボックス買ったんですよ。2個。
でも組み立ててみたらサイズを間違えてたんですよ。思っていたのより20cmも高かったんです。組み立ててる時は横に倒してたから全然気づかなくてですね。ネジをぜんぶ閉めて、ヨイショって立ててみたら「ん???高い???」ってなって。
これだと置きたいところに入らないんですよ。
ちょっと今落ち込んでるんです。

じゃあね。

ブロックを積み上げてその上に立つ

ボイトレの3回目に行ってきました。

表情筋のトレーニングとかしてベロを動かしてたら気分が悪くなるくらい疲れた。運動とか筋トレとかやりすぎると疲れを通り越して体の内側(たぶん筋肉)の気分が悪くなるよね。ぐわーって気持ち悪い塊がぐるぐる体の中にたまる感じ。ならないかな。
舌根と言ってベロの付け根が鍛えられたらしいです。滑舌がよくなるらしいです。

あと息を大きく吐いたり小さく吐いたりってのをやったんだけど、前回は全然強弱をつけれなかったのに今回はうまくできた。前は大きくと小さくの差が4〜7くらいしかなかったのが今回は2〜9くらいまで広がった感じ。たぶんもっと小さいのと大きいのがあると思うけど、とりあえず範囲が広がった。これはどこかの筋肉が鍛えられたとかではなくて「自分がどこまでできるかを自覚した」からだと思う。

自分の体がどこまで動くのかって自覚がないと動かすことってできないんだよね。脳で自覚して、脳からの命令でその範囲内で活動をしていると思うんですよ。だから「ここまでできる」っていう範囲の認識を少しずつ広くしていくことで自分の体の動かし方を上手にできるようになると思う。

これって、作品作りにも同じことが言えるんじゃなかろうか。

僕はいままでたくさんの映像を作ってきたんですよ。あ、100個超えたんですよ。
学生時代から映像作品に通し番号を降っていて、パソコンのフォルダを管理するためなんですけど、いまやっている仕事が75番なんですね。1個の仕事で10個とか20個とかコマ撮りを作る仕事もあるし、仕事じゃない映像とかはこのカウントに入ってないのもあるから番号以上にも作ってて、なので合計は100個を超えてるんですよ。われながらすごいなぁ。生涯で何作品作れるんだろうか。1000個とかいけるんだろうか。

いや、それでですね、1個作るごとに「自分がどこまで作れるか」というのが自覚できるんですよ。
何コマとれたとか、どれだけ美術作ったとか、どれだけ細かい動きができた、はげしい動きができた、カメラアングルをがんばれた、色を意識できた、スタッフへの指示がうまくいった、スケジュールがちょっと見通せた、などなど出来たことが色々とあって、同時にできなかったことも色々あって、それらを全部踏まえて次のコマ撮りを作るときに「前回はあそこまでがんばれたから、今回はこれくらいできるだろう、これくらいがんばろう」とか思えるわけですよ。ちょっとずつ出来ることを拡張するんですよ。

例えるならジョギングをはじめた人が「今日は1km走ろう」からスタートして「次は2km走ろう」と増やしていって何日もやっていたら10km走れるようになったみたいな。
これは実は最初から10km走れる体力があったかもしれないんですが、走った経験がないといきなり10kmはできないんですよね。体力や筋力があってもペース配分を間違えてバテることだってあるし。
「自分はここまで走れるはず」という認識・覚悟があることで、そこからプラスアルファの努力ができるというか。

センスがあって何も知識ない状態からいきなりぶっ飛んだ作品をつくる天才たちもいますが。

何が言いたいかというと「とにかくたくさん作品を作ろうか」ということです。
作った数しか成長できません。
「質より量」ってミシェル=ゴンドリー監督も言ってましたし。

【 その上にまたブロックを積み上げて、またその上に立つ 】

公園でペットボトルのまわりをぐるぐる回る話。

iPhoneが壊れました。
電話の声だけ聞こえないという故障。
映像のBGMとかは聞こえるしスピーカーモードにすると声は聞こえる。
再起動しても治らなかった。
イヤホンをさしたら聞こえたので、電話がくるたびにイヤホンをささないといけない。
あ、着信音は鳴ってるのは不幸中の幸ですな。

LINEとかFacebookのMessengerの通知もこなくなって、アプリを開くと未読メッセージがパラパラって増える。(ズラズラっと増えたりはしない。そんなにやりとりしてないから)これも設定でかわるっていうのを調べてあらゆる部分をいじったし再起動したけど直らなかったよ。
買い換えろってアップルがいってるのか。

 * * * * * * *

そんなことよりコーチングの話をしよう。
コーチングというのを受けています。

コーチング?なにそれ?

いきなり何のことかと思うでしょうが、その説明をしよう。
といってもコーチングをうけてるだけの僕の説明なんで、
イメージというか正確な説明ではないというのはご了承願います。

芸工大のときの先輩の越智さんって方がですね、1年か2年前くらいに
「コーチングはじめます」って言い出して、僕もナニソレ?って感じだったんですが

サイトがこちら
こころの境界線研究所〜境を知る、越境する〜

アドレスが「落ち目」になってるのはわざとだそうで。
サイトを見に行っても胡散臭い宗教とかに見えるかも(笑)
研究所って言ってるけどいま越智さんひとりですよ。

そんなもんだから、実態について語ってみようかなと。

何をするかというとですね、ただしゃべるだけなんです。いまは1月に1回(最初は2週間に1度でした)、喫茶店とか越智さんの家にいって、それで1時間くらい僕がいろいろとしゃべって、越智さんはそれに相槌を打ったり、たまに質問をしたり、それに対して思ったことを言ったりする、というもの。

金を払ってそんなことしてんの?!

プロのコーチというのは聴き手のプロなんですよ。そこには話を聞く側のルールとかスキルが色々ありまして、相槌・質問・感想の言い方にさまざまなスキルがあるのです。越智さんを相手にして話をすると、自分が考えていることや最近の出来事から昔あった思い出とかいろいろと自分の中にあるものがひきだされて、それがつながっていって今の自分がどういう形をしているのかがわかるようなります。

「いま、これを気にしてるのって以前にあったあの出来事が原因だったのか!」
とか

「全然意識をしてなかったけど、自分にとってこれは仕事をしていく上でとても大事なことだったんだ!」
とか

「これを考えていたから、こんな行動になってるんだ!」
みたいな

そんな発見をしていきます。
小さい頃の思い出がいまの考え方を作ってることもよくあります。

コーチを触媒にして自己分析をするって感じですかね。
なので「仕事とか私生活とかで悩んでいる」までじゃないけど、なんか自分の生活ってパッとしないなー、とかって思ってる人はうけてみるといいですよ。自分の輪郭線というか、コアになっているものが発見できると、次に向きたい方角がわかるようになると思う。

しかも「発見」というのが大事だと思う。教えられるのではないです。僕が仕事の悩みを話しても越智さんは「じゃあこうしたら?」みたいな解決策を言ったりしません。原因を見つけてくれたりもしません。この点はスポーツのコーチとは違うのかもしれないですが。(スポーツをそんなしたことないからスポーツのコーチがどんなことしてるのか良くわからないですが)

話をしていく中で自分が原因とか解決策とかを発見していくのです。これはたぶん、コーチたちが持っているスキルによるものだと思う。

と言っても僕は「趣味は自己分析です」って言えるくらい自己分析が好きなので、コーチングが必要なほど自分に悩んでいるわけではないです。自己分析が好きだから、さらに進めたいって感じかも。

そうだな、越智さんがやってくれたことで会話以外の面白かったやつを書いてみるか。

僕が自主制作を作るときの悩みを言っていたときに
越智さんがペットボトルを持って
「じゃあ、その作品がこのペットボトルだと思って…
ペットボトルをここに置いて、その周りを歩いてみようか」
って言い出すんですよ。ちょっとびっくりですよね。

(そのときは公園にしまして、天気がいいときとかは公園でもやります)
それでペットボトルを地面に置いて、その周りとぐるぐる回りながらペットボトルを見たんですよ。

越智「どんな風に見える?」
泰人「うーん、なんかゴールデンレトリバーみたいな犬が座っている感じです(実際に見えてるんじゃなくて、思いついた想像の話をしています)」
越智「じゃあ、そこから10メートルくらい離れて…こっから見るとどう見える」
泰人「なんか、人とかがごちゃごちゃいる中に犬が埋もれている風景がみえます(そういう風景を想像したってだけです)」

みたいなやりとりをするんです。
それに対してさらに自分で「何でそう見えるのか」とかそこから思いつく全然違うこととか話すのです。

それ以外にも
「それを絵にしたらどんなタイトルをつける?」
「そのときの感情はポーズにするとどんなポーズ?」
みたいな。

これは後から聞きましたが、僕はビジュアル的な発想をよくするので、そういう視覚的な質問をするそうです。僕以外の人にはもっと違うアプローチで話すみたいです。

心理カウンセリングと似てるように思えますが、なんか方向性が違うかな。
心理カウンセラーの目的って、何かの解決とか、悪い方向を向いているのを良い方向に向けるとかだと思うんだけど、コーチングは分析というか、原因・要因を見つけることのが目的にあって、それを解決しようとはしていない気がする。原因に気がつけば解決させずとも気がすむという感じ。
いや、これは僕自身がそう思っていることかな。
自分を客観視できれば、原因がそのままでも半分くらい解決した様なものだと思うんですよね。
僕がそんな考えだから、越智さんも僕にそんな感じで接しているのか?

そしてコーチング事態にも色々と種類があるらしく、
ビジネスマン向けのコーチングとかだと目標達成にむけて自分に何が必要なのかとか、
達成してどう思ったのか、達成できなくてどう思ったのか。
そんなことを話すそうです。

説明はこんなところで。
たぶんコーチングについてはこれから何度も日記を書いていくと思う。

じゃあ、また。