「永遠を求める人」と「速さを求める人」

今日は「永遠を求める人と速さを求める人」という話をします。人を2つのタイプに分ける話です。その他もいると思うのでこの2つにぱっきり割れるような分類の話ではないですが。

いままで仕事をしてきて永遠を求める人というのがいるなと最初に考えるようになりました。そしてその逆にあたる人ってなんだろうと思ったときに「速さを求める人」かなと思ったのです。対になる単語ではないですが。

先に断っておきますが、これはもう完全に独断と偏見です。偏見の話です。32年しか生きてなくてコマ撮りしかやってこなかった若造が言うことなので話半分に聞いてください。

5300字。

【永遠を求める人とは】
「永遠を求める人」とは簡単に言うと職人タイプの人です。「自分が作った作品がそのあと長いあいだ世に残る。作品が残らなくても、自分の技術が継承されていく。自分の名が後世まで残る」そういうのを望む人。例えば革職人とか木工職人とか。技術職も芸術家もそう。つまりはartistか。あとは科学者とか研究家みたいなのがそう。

【速さを求める人】
これに対して「速さを求める人」というのは言い換えると「新しさを求める人」です。新しさというのは最新のものだったり流行だったり。「新しさ」の価値は「速さ」かなと思ったので「速さを求める」と言ってみましたが、どちらでも良いです。これは、テレビや雑誌のマスコミとか広告代理店とかの人のことです。テレビ番組では新しいお店の紹介とか流行ファッションの紹介とかありますよね。そういうのは情報の鮮度が命なわけで、マスコミの人たちは常に新しいことを求めています。そういうものをひたすら追いかけている。

【広告の世界の速さを求める人】
広告にもそういうところがあって、流行りの芸人や俳優をCMに起用して話題になるように、とかを考えています。そしてCMに役者を使うときは使用期限があります。俳優との契約期間があってそれをすぎるとそのCMは放送できなくなります。役者さんからしてみると自分がずっと1つの商品のイメージがついてしまうと次の仕事が来なくなってしまうということもあるので、そうならないように契約期間があるわけです(逆に同じCMをやり続けてイメージを固めているタレントさんもいます)。つまり基本的にはCMはある一定期間しか見てもらえない映像なわけです。

そういう期限があることは当たり前といえばそうなのですが、自主制作したコマ撮りをYouTubeにアップしてきた僕からしたらその契約は思いもよらないものでした。だってYouTubeとかって永久に公開してられますからね。いつでも誰でも何年後でも誰かが再生してくれる。

それに対してCMはそうはいきません。その意味でCMは生物(なまもの)です。放送期間のあいだにヒットしないといけない。当然ですが放送するのにもお金がかかるので、CMをテレビで永遠に流し続けるわけにもいきません。「いつかヒットしたらいいな〜」なんて悠長な考えではいけないわけ「今ヒットするかどうか」が大事になる。そうなるとこのCMが今の時代にあっているか。世相や流行にマッチしているか、必死に考えます。

「速さ」の違う例としては新しい映像表現とか新しい技術とかも広告の人たちは常に求めています。プロジェクションマッピングが出てきたらそれでなにかできないかと考えたり、ドローンが出てきたらドローンで何か撮影できないかと思ったり、もうちょっと前のことならTwitterが流行りだしたらTwitterと連動したキャンペーンを考えて、Facebookが流行りだしたらFacebookと連動したキャンペーンを考えたり。
僕もよく言われます。「プロジェクションマッピングでコマ撮りできないですかね?」「ドローン使ってコマ撮りの面白い企画ないですかね?」みたいなことを広告関係のプロデューサーなどに聞かれます。すぐアイデアがでないのでいつも困るんですが、そもそも僕がそういう最新技術に飛びつこうという意欲がないことにしばらくして気づきました。僕は速さを求めない人のようです。

【確固たる何か】
速さを求める人たちは新しいものを使って何かをするかわりに1つのことをじっくりやろうという考えが薄いと思います(そうじゃないキャンペーンや、そうじゃない考え方の広告の人がいるのもわかってますが)。
「永遠を求める人」にはそういう「新しいもので今すぐに何かしよう!」という感覚があまりない。いますぐにヒットしなくても数年後に評価されれば良い。「ゴッホは自殺した後に評価されたわけで、さすがに自殺は嬉しくないけど、芸術ってそういうもんだったりするよね。だから良い作品を作っていればいつかはちゃんと評価されるはずだ。いますぐ評価されなくったって、俺はこれを作り続けるよ」それが永遠を考える人の思考パターンの1つ。

永遠を考える人はそういう長期的な目的があって、生涯をささげるものがあるので、自分の中に確固たる何かを持っている。他人には分かってもらえないかもしれないけど、自分にとっては大事な確固たる何か。そういうものがある人は自分というものがブレにくく、周りから言われた言葉で慌てたりしない。周りを気にせず一人でしっかりと立っていられる。究極、誰にも会わずに自宅でもくもくと自分の作業と向き合っているだけで生きていける。作品作りとか研究をずっとするだけで満足できる。それゆえに永遠を求める人はコミュニケーションをあまりとろうと思わない。

【コミュニケーション能力の必要性】
コミュニケーション能力があるのは速さを求める人たちです。広告代理店の人たちとかを見ると「コミュ力の塊か!?」と思うことがあります。そもそも仕事がそうだからね。メーカーなら商品は自分たちのものですが、広告の人たちにとっては商品は誰かが作ったものなので、クライアントとユーザーという他人と他人をつなぐのが広告の人たちの仕事です。彼らの仕事は確実に他人の為のものなので、常に相手のことを考えて生きています。
これまでに何度か代理店がクライアントにプレゼンするのに同席したことがあります(CMの映像監督はクライアントと直接やりとりしないことも多いです)。そのプレゼンの準備の様子を見ていると代理店の人たちはものすごい気を使っているのがわかります。資料の順番とか文章の言い回しとか、1つ1つがクライアントにちゃんと伝わるかどうか、変な誤解を生まないかどうかをすごく気にしている。「クライアントが納得しなかったらお金がもらえないから、必死になるのは当然だ」みたいな言い方もできますが、とにかく気を使いまくっています。そういうのを見て僕は「この企画は面白いから、そんなに心配しないでも分かってもらえると思うんだけどなー」みたいなのんきなことを思ってしまうのです。僕はプレゼンする気がないのか(笑)。

永遠を求める人、つまり確固たる何かが自分の中にある人は自分に自信がある。「良いものさえ作れば理解してもらえる」と思っている。確固たる何かを持つ人は一人きりでもやっていける。それに対して確固たる何かがない人は誰かと繋がってないと生きていけない。それゆえにコミュニケーション能力が高くなる。プレゼンの準備を見て、そんなことを考えました。

ここからさらに偏見を進めた話をします。

【社会をつくる人々】
永遠を求める人と速さを求める人、どちらが良い悪いではないと言いたいとこですが、社会というものを作っていくためには「速さを求める人」つまり「コミュ力で生きていく人」の方が大事だと思っています。永遠を求める人だけでは社会はつくられない。

学校のクラスがあったとして、その中に「永遠くん」と「速さくん」とその他のクラスメイトがいたとします。永遠くんは教室のすみっこで一人もくもくと革細工を作っています。そこにクラスメイトが1人やってきて「へぇ〜、この革細工、永遠くんが作ったの?すごいかっこいいね」なんて言ってくれて、永遠君はその一言で満足してまた自分の作業に篭れる。でもそれでおしまい。その革細工がクラスに広まることはない。
そこに「速さくん」がやってきて革細工を見たら「すげー!なにこの革細工!永遠くんが作ったの!?これ、すごくね!みんなー!これすごくない?これー!革細工だってー!まじかっけー!」ってお祭り騒ぎになってみんなに広まる。誰かがこういうことをしてくれない限り永遠くんの革細工は世に広まらない。
でも「速さくん」は飽きっぽいのでその革細工にすぐ飽きます。そしてとなりのクラスにいる銀細工職人くんをみつけて「なにこの銀細工!すげー!みんなー!銀細工だってー!みんなー!すごくなーい!?!?」となる。
永遠くんからしたら浮気者に見える速さくん。

でもその後に速さくんが二人のところにやってきてこう言ったりする「この革細工と銀細工をあわせたら、もっといいもんになるんじゃね?どう?どう?」こうして新しい作品が生まれる。人と人との橋渡しができるのが速さくんのすごいところ。社会は人と人のつながりでできているから、そのつながりを積極的に作ってくれるのが速さくん。
永遠君たちはもともと一人で生きていけてしまうから、コミュニケーション能力がひくい。日本中の職人の世界で後継者不足って話がでてるのもそう。自分がいい仕事さえしていれば周りからいつか評価されるし、ある日ひょっこり若者がやってきて「この作品に感動したんで、弟子にしてください!」って言ってくれるのが理想とか思ってるんですよ。そんなの来ないですよ。自分の技術を後世に残したいならリクルートちゃんとしなさいって言いたいけど、その能力はないんです。自分でできないならむしろ速さくんにお願いしたほうがいい。速さくんはつながりたがっているから。

【永遠を求める人の終わりなき旅】
求めるものが「永遠」と「速さ」それぞれありますが、どちらもゴールが存在しないんじゃないかと思います。

永遠を求めるというのは、その技術の向上だったりより良い作品を作ることだったりしますが、当然そこには終着点がないです。科学の歴史がずっと続いてきたことは分かりやすいと思いますが、1人の科学者の一生ではゴールにはたどり着かない。人類の歴史がつづくかぎり進み続ける。アートも同じで、1人の作家の中の成長も死ぬまで続くし、先人の作品を次の世代が受けて次の作品を作っていきます。道がひたすら繋がっていくだけ。

そもそも終着点があるなんて思ってない。いつまでも尽きない好奇心と探求心で生きていく。その道を進めば進むほどにやりたいこと・やるべきことは増えていく。故にこの生き方には退屈がなくなります。そのかわり満足感を得ることも少ないようです、残念ながら。「満足を得ることがあっても一瞬だ」と言う人が多い。でもその人たちはその道を生きて行く。そう決めているから。それが永遠を求める人。

ここらへんはショーペンハウアーの『幸福について 人生論』で苦痛の人生と退屈の人生の比較について書かれてますので読んでみてください。昔の本だし訳本なのですっごく読みにくいと思うけど、けっこう面白いです。

【速さを求める人の終わりなき努力】
速さを求めるというのは「他の人よりも速く」という意味があって、「アキレスと亀」のように、終わらない追いかけっこを無限にしているような印象があります。どこまで走っても、走り続けるだけでどこにも辿り着けないんじゃあ。

そしてメディアなどの情報を届けようとする類の仕事はどうしたって最速にはならないです。なぜなら情報を生み出すのは永遠くんの方だから。

「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」(アラン・カーティス・ケイ、パーソナルコンピューターという概念をつくった科学者)という言葉の通り、情報の最大の発信者は永遠くんです。

情報発信の本当の一番手は永遠くんです。速さくんはそこからもらった情報をクラスメイトに伝えるだけなのでどれだけがんばっても2番手にしかなれない。これは速さくん自身ではコントロールできないことなので、他の人を出し抜いて2番手になるために必死になるしかない。

僕からすると、そこに無理がたたってるような印象です。

【まとめないまとめ】
僕は永遠を求めるタイプというか永遠に憧れているタイプです。そもそもコマ撮りを選んだのも昔からある技術で普遍的な手法だと思ったのも1つの理由だと思います。自分にとっての新しい技術を身に付けたいとは思うけど、世間にとっての新しい技術に飛びつきたいとは思えないのです。

速さくんの満足感がどこにあるのか、僕はまだ知りません。自分はそちら側ではないと思っているので。一方的な考えなのでこの話は偏見なんです、すいません。

どの生き方にせよ答えなんてないんでしょう。そして人は完璧にどちらかに分かれるのではなく、この2種をどちらも持っていて、そのバランスの問題なんだと思います。永遠と速さの求めるバランスとか、こうなりたいというバランスと実行できるバランスがまた違うということもあるでしょう。

はい、あってるのことなのかどうかも分かりませんが、こんなことを考えましたという話でした。お粗末様でした。