利他的という生存戦略

うーん、前回の日記を読み返したんですが、なんかすごいこと語っちゃってるなぁ。毎回の仕事にこんなに気合いが入ってるわけじゃないですよ()気合い入ってない仕事してるって思われるのも困るけども。こういうことは普段はなんとなくぼんやりと考えてて、誰かに聞かれたときに言葉にするとどんどん形がくっきりしてきて内容が突然派手になっちゃうっていうパターンですよ。

だから泰人がいつもいつもこんなことを考えながら生活してるとか思わないでいただきたい。いただきたい。

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 前 回 の つ づ き

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リーダーミーティングで話してたら宮原君から質問がでました。

宮原君というのは僕の芸工大の後輩でして、音楽ライブの撮影とかアー写の撮影とか音楽関係の撮影とか色々としてる方。彼もリーダーミーティングの運営メンバーです。

宮原君のブログ「音楽活動を一生続けるためのヒント集 音楽専門カメラマン宮原那由太のブログ

そんな宮原君から出た質問

「フリーランスで仕事をしている人たちのなかで、仕事が来る人と来ない人の違いはなんですか?」
ちょっと悩んでこう答えました。

「いい人かどうかだと思います」

僕がいい人だって言いたいわけじゃないです。

フリーランスで仕事をもらえる理由でよく言われることがいくつかあります。「仕事がはやい」「レスポンス(メールの返信など)がはやい、ちゃんとしている」「クライアントが何を望んでいるか理解して、それを返す(自分よがりじゃない)」「望まれたもの以上のクオリティを上乗せする」

たぶん、仕事が速いってのが一番ですかね。それがあれば仕事は来ると思います。世の中いろんな仕事がありますが、だいたい求められるのはクオリティより速さですよね。残念ながらね。

でもそういうよく言われていることをここで僕が話しても意味ないと思いました。そして、ふと自分がどんな人に仕事をふりたいかと考えたときに出たのが「いい人かどうか」でした。

僕のところにコマ撮りの仕事の話が来たときに、スケジュールがあわなかったりして断ることがあります。そういうときにたいてい僕は断るだけじゃなくて、友達のコマ撮り作家を紹介します。
それぞれに得意なコマ撮りというのがあるので、それにあった人を選んだりもするわけですが、そういうときに嫌いな人に仕事はふらないですよね。そもそも嫌いだったら友達になってないですが。技術や経験があれば安心して仕事をふれますが、例えば学校を卒業したばっかりで経験もない人がいたとしても、その人がいい人で僕の友達になっていたらその人にもできそうな仕事をふりますし、なんだったら僕がサポートに入ってもいい。まあ、そういう人だと多いのは僕の現場のアシスタントで入ってもらうというパターンですね。最近はそんな感じで若い人にも仕事をお願いしています。

この「いい人」という能力は他のどのスキルよりも重要です。技術的スキルというのはまったく違う職業に転職したときに役に立たなくなることがありますが、「いい人」という営業能力はどれだけ転職しても自分を助けてくれます。知り合いにもともとの職業とは全然違うwebデザインの仕事をフリーで始めた人がいました。その世界ではまったくコネがない最初のころに仕事をくれたのはその人の友人達でした。「彼がwebの仕事を始めたらしい。まだスキルはないだろうけど何か仕事をあげよう」とみんなが思ったわけです。その人がいい人だったから、まわりから好かれて仕事がきたわけです。人に嫌われていたらどんなにスキルがあっても仕事は来ないですよね。

こういうことを考えるきっかけになった本があります。角川文庫からでているNHKの『ヒューマン』という本です。

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ドキュメンタリー番組の『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』をつくったNHKのプロデューサーたちが取材の様子も含めてその内容を綴った本です。むちゃくちゃ面白いです。人がお猿さんからどうやって人間になったのか、集団生活や道具がわれわれの精神にどんな影響を与えたのか、その心とか精神の発達について書かれています。世界各地の教授に取材にいったり原住民に会うためにジャングルの奥地に行ったりというロードムービー的な内容もあって取材のながれも面白いです。本当に本当に面白いから読んでほしい。話としておもしろいし、「人間ってそういう生き物か」というのがわかるとなんというか生きていく見通しがよくなると思いました。

その本の中で「利他的でないと生きていけない」という話がでてきます。ちょっとその話をします。

人類がまだインディアンとかの少数部族みたいに生きている時代、アクセサリーがとても重要なアイテムでした。地面の中から宝石などを掘り出して、削って加工して首飾りや腕輪などにして身につけるわけですが、それらは自分のためではなくすべて贈答用だったそうです。だった、というかいまでもアフリカの原住民たちはそういうアクセサリーを贈答しているそうです。

そのアクセサリーを近所でなく各地に点在している他の部族どうしが贈りあうんだそうです。それは友好の証として交換します。そしてもしどこかの部族が飢饉になったときにアクセサリーを交換してあった部族は飢饉の部族を助けるために食料をわけあたえるのです。逆に自分たちが飢饉になったらその部族が食料をわけてくれる。違う部族が助け合って生きていくわけですが、その「助け合いをしますよ」という証がアクセサリーなのです。

なのでアクセサリーをたくさん持っている人というのはそれだけ多くの部族と贈答しあい、助け合ってくれる部族が多いという証であり、生きる力をもっている人だという証なんだそうです。だからアクセサリーを多く持っていることが彼らにとって死活問題なんです。ただのおしゃれではないのです。

もう1つこの本から例を。

狩猟民族の話。村の男達が集団で狩りにでかけて、獲物をとって帰ってくるような場合、獲物をしとめた男はその獲物を気前よく村の人全員に配ります。独り占めしようとか自分だけ多くもらおうとはしません。そういう自分勝手な行為は「立派な戦士の振る舞い」ではないからという言うのです。立派な戦士はみんなに平等で、自分の手柄をひけらかすようなことはしないんです。男達は立派な戦士になりたいので、そういう立派なふるまいをします。ですがそれはもっと重要な理由から生まれた作法なんです。もし、ケガをして狩りに参加できなかったときに食料をわけてもらうにはいい人でないといけないのです。つまり自分勝手な振る舞いをする人はすぐに村八分を食らうのです。それを全員がわかってるから利他的に振る舞うのです。しかしそんな後ろ向きな理由をはっきりと言うわけにはいかないのでしょう、「立派な戦士の振る舞い」というポジティブな言葉で自分たちの振る舞いを律しているのです。(思い出しながら書いているから引用文ではないです)

アクセサリーの交換も戦士の振る舞いも「自分が困ったときに助けてもらうには普段から利他的でないといけない」という人間社会の原則の話です。

人と人との関わりの中で生きていくなら利他的でないと死ぬと思います。フリーランスをやっているから尚更そう思います。いやな人に仕事をふりたくないですもん。企業に勤めていたとしてもクビになったあとに誰かが助けてくれるかどうかはその人がいい人かどうかでしょう。人から嫌われたまま一生クビにもならずに生きていけるとも思えません。

ちょっと話が前後しますが、自分のところ来た仕事を友達にふるということを話したときに「そのときに紹介料のようなマージンをとりますか?」という質問がでました。そういうことはしません。そもそもただのコマドリストがそんなお金をとれるのかビジネスとしてのやり方も知りません。それにマージンをとって友達に嫌われることのほうが危険だと思います。もし紹介料をとるのを繰り返してたら、そのうちに「泰人さんに話をもっていくと予算が減る」と言われるようになって、僕を通さないでみんなが仕事のやり取りをするようにもなると思います。仲介業者というのはそれで成り立っているわけですが、僕個人がそんなビジネスできないし、する気もないです。その仕事はつまらん。それよりも数万円のマージンをとらないで、その友達に仕事をあげたという恩を売っておけば数年後に数十万の仕事を逆にくれるかもしれない。長期的な視点にたてば、そっちの方が利益が大きいです。

村八分という言葉があるように、村社会だとこの考えが根強いのはイメージしやすいと思います。では都会的な生活が増えてそれが薄くなったかというと、いまはSNSが発達したのでこの村社会の雰囲気は全世界でなりたってしまうと思います。陰でこそっと悪いことをしても誰かがツイートしたら全世界にバレてしまう。芸能人が炎上して仕事がなくなることも珍しいことではなくなりましたし、一般人でもネット炎上が理由で自殺する人がでてきました。大企業のサラリーマンも私生活での振る舞いがツイートされてクビになる時代です。あらゆる場面で村社会の目がきびしく光っていると思った方がいいと思います。

などなどの理由から「仕事が来るかどうかはいい人かどうか」という話なのです。

あー、長くなった。もう12つ「いい人」について語りたい。後日に回します。おやすみなさい。