『繩』出来ることから発想する / 『修行論』 生まれ落ちた時から白刃の下

まず、こちらのコマ撮り作品をご覧ください。

セットデザインについて

人形やセットの緻密な鉛筆画がストーリーの不穏な感じとマッチしていて惹き込まれますね。

作者の吉田さんはこのセットデザインについて、コマ撮りを始めようとした際に美術セットをつくるノウハウがなかったので、 前から描いていた鉛筆画を立体化する事で造形スキルの不足を補った、ということをお話していました。

これについてコマドリルの方で記事を書いたけど、さらにこっちでも詳しく書きたい。

課題解決 / デザイナー的視点

こういう課題解決の思考法を僕は「デザイナー的」と呼ぶんだけど、この言い方は一般的だろうか。

僕がよくやる広告の仕事だと、クライアントの要望があうアイデアを出す。例えば、ロゴの色が赤だからCM映像も赤をメインカラーにしたいとか、様々な要望があって自由な発想はさせてもらえない。でも広告関係者はこの課題解決思考が上手で、むしろ課題や制約がないとアイデアが出ないと言っている人も多い。

『繩』では美術セットをつくるノウハウがないという課題に対して、鉛筆画でクリアする。ノウハウがないこと自体は解決してないけど、作品としては成立させてる。(建物とちゃんと作ってる部分もあります)

ちょっと話が変わるんですが、『修行論』という本が面白くて紹介したい。この発想方にかかわることも書かれてました。

『修行論』 内田 樹


著者の内田 樹(うちだ たつる)さんは武道家、批評家、大学名誉教授、など肩書が多いし著作も多いのですが、この本は合気道を通して内田さんが考えてきたことが書かれています。武道以外に通じることが多くてすごく面白くて、ほぼ全ページにラインマーカーを引きそうになりました。

そのなかで書かれていた天下無双とは何かの話がデザイナー的思考と似てると思ったのでそれを書きたい。

かいつまんで書きます。(僕の解釈で書くのでニュアンスなどで間違ってるかもしれません。詳しくは本を読んでください!)

『修行論』Amazon

天下無双とは何か。

すべての敵を倒す

天下無双とはすべての敵を倒すことだと仮定すると、世界中のすべての武人と戦うことは現実には不可能なので、定義を再考する必要がある。では「敵」とはなにか。“敵”とは、自身のパフォーマンスを低下させるものと定義してみる。対戦相手はこちらのパフォーマンスを低下させる存在である。その存在を倒す。

敵の解釈を広げる

格闘家たちは他国へ遠征するとき、コーチだけでなく、マネージャー、栄養管理士、弁護士などをつれていく。それは試合で良いパフォーマンスをするためである。つまり、肉体的な不調だけでなく、栄養バランスの取れていない食事やギャラ交渉による心理的ストレスなども自分のパフォーマンスを低下させる敵であり、その敵を排除するためにスタッフを連れていく。敵の解釈を広げていき、さまざまな障害を取り除いていくと、生き延びる可能性が高くなる。これが天下無双のあり方かもしれない。

しかし、すべてのものを敵と認定していくと最後に倒せない敵が残る。それが加齢と老化だ。加齢を敵とすることは生きること自体が敵になってしまう。

それに、自分の行動を邪魔するものをすべて敵ととらえると、道ですれ違う人でさえも自分の動線の可能性を減らす存在として敵になってしまう。そのような考えの人にとって理想は「自分以外に誰もいない世界」となる。

ベストコンディションの自分があるという仮定

そもそも、”ベストコンディションの自分がある”と仮定して、それをそこなう存在が敵で、その敵を排除したらベストコンディションの自分に戻れるという発想が間違っているのではないか。

すべての障害を敵と見なさないのが無敵なのではないか。

生まれ落ちたときから白刃の下

「風邪をひいてベストコンディションではないから」という理由で試合をしないのは武道ではない。スポーツでは試合の日程を決めてコンディションをその日にあわせるが、常に戦う状態にあるのが武道である。風邪をひいたら、生まれつき風邪をひいたまま人生をすごした者として振る舞えばよいのではないか。ベストコンディションの自分というのを決めなければ、その時の状態が万全な自分となる。

頭上から白刃が振り下ろされる。このとき白刃は自分の行動を制約するものだが、「生まれ落ちた時から白刃の下にいて、白刃の下にいることが人生」の人にとって、白刃は敵ではなく、その状態でのびのびと生きることができる。

“目の前の障害を、自身のパフォーマンスを低下させる敵と考えない”それが無敵の主体である。

僕の解釈

というようなことが書かれていました。

「生まれ落ちたときから白刃の下にいる」という例え話はぶっ飛んでると思いますが、敵を敵と思わない、という発想はデザイナー的だと思いました。

デザインの仕事でクライアントからの要望(つまり制約)があるときに、「この制約のせいで自由にものづくりができない!」と怒るのはダメなデザイナーで、「この制約のおかげで、むしろ良いアイデアがでた」と仕事を成功させるのが一流のデザイナー、であることが多いです。デザイナーだけでなく広告代理店で働くプロデューサーとかプランナーたちは常にこの思考で生きてると思います。制約を制約としない、むしろ企画を伸ばすバネのようにとらえる。

なので、映像作品を作るときに、自分ができないことがあってもそれを敵としないで、その状態でベストなものづくりができるようにやるのが良いという話。

竹内泰人の場合は

僕にはそういう思考が大学生のときからありました。そして前述の『繩』の作者の吉田ヂロウさんも同じ大学(九州大学、芸術工学部)の出身なので、この思想は芸工のものかも?とか思ったり。

僕はアニメーションが作りたかったですが、ストーリーが思いつかなかったので、ストーリーのないものを作ってきました。

1作目の『賑やかな缶』は「缶で何かの動きを表現する」というショートコント。2作目の『黒と白の連続』は人がコマ撮りで変な動きをするショートコント。3作目の『Ms.キャロルの昼食』はピーマンが動きまわって食べられる作品。人形も美術セットをつくってません。缶も人もピーマンもすぐ手に入る!

4つめの『オオカミとブタ』のストーリーは、オオカミとブタの追いかけっこという童話みたいなシンプルなものにしたし、オオカミの服装もブタの人形もリアルじゃないデザインにして、簡単な工作ですませました。

僕はこの、できないことの組み合わせで体裁を整える能力があるみたいです。

おまけ、仕事のプレッシャーがあったとき

4年前、歌手のLiSAさんのライブで「ONLiNE LEO-NiNE」というネット配信で開催されたライブありまして、そのオープニング映像の依頼が来たとき、クライアントの大きさにビビったのですが、「僕は生まれ落ちたときからLiSAの映像をつくってきたのだ」と自分に言い聞かせて請けました(笑)

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