『遊びと人間』という本を読みました。古い本なんですが、遊びとはどういうものかという分析したもので、とても面白かったのでその解説と自分なりの解釈と映像にからめて語りたい。長文です。
読むまでの経緯
(経緯もどうしても語りたくなってしまう性分です)
この本には「遊びには4つの要素があって、すべての遊びはそれの組み合わせである」ということが書かれて、何年か前にその4要素についてのネットの記事を僕が読んで興味が出て「この4要素について何か勉強になる本とかないでしょうか?」ってSNSで聞いたら、大学の先輩が「それはこの本とこの本のことだよー」と教えてくれたので読みました。
その本の1つ目が『ホモルーデンス』。ヨハン・ホイジンガ著、1938年の本。世界のさまざまな文化などが遊びからできているというような内容。世界中のいろいろな文化や伝統的なものを網羅的に「これも遊びである。遊びから生まれたものである」と解説している。その遊びに定義とか書かれている。
その本を受けて書かれたのがロジェ・カイヨワ著の『遊びと人間』1958年。こちらに遊びの4要素があって、それが僕としてはとてもためになった。
遊びとは
2つの本にあった遊びについてのをまとめ的に書くと、
遊びとは
・時間や空間が定義されて、日常空間から切り離されている。
・その遊びの中でルールが厳格に決められている。
といったことが書かれています。本当はもうちょっとある。
時間や空間の定義
スポーツなどのプレイ時間が明確に定められていること。遊び(ゲーム・試合)をしているあいだは日常生活とは違うものだと誰もが認識している。(もし、それが日常生活と繋がっていると思っていたらそれはもう遊びではない。仕事とかの認識になってる)
場所も、スポーツなら競技場、演劇なら劇場とか、映画館とか「あそぶ空間とは日常生活とは違う場所ですよ」と明確に線を引く(実際には壁とか門とかがある)ことで、日常生活をその中に持ち込まないという気持ちで参加する。
ルールを守ること
遊びのルールを守るということはとても厳格に守られる。逆に言うと日常生活ではルールを破ることが多々ある。脱税だったり信号無視だったり、ルールを破ることは簡単にできる。大きなルール違反をすると逮捕されるけど。
遊びの中でのルールを守ろうとるす気持ちは日常生活のそれよりもとても強い。ルール違反したものはすぐに退場となる。
ちなみに、ギャンブルとかでイカサマをすることはルール違反だが、表面上はルールにのっとっているように振る舞うので、イカサマ師はじつのところはルールを守るように動いている。例えばポーカーなどで本当にルールを破りたいならカードをぶちまけて銃を乱射して相手を殺せばよい。でも、そうはしない。カードをすり替えたりしても、あくまでポーカーをしているていで振る舞う。その意味で遊びのルールの重要さを認識している。
遊びの4要素
さて、ここから、ロジェカイヨワが提唱した4つの要素がとてもためになったので書きたい。あと書かれた時代がもう70年くらい前なので、僕なりに現代の文化を例にして解説もしたい。
4つの要素
・競争(アゴン)
・運(アレア)
・模擬(ミミクリー)
・めまい(イリンクス)
「競争」はわかりやすいと思う。ゲームというものがほぼすべて他人と競争する、個人だったら過去の自分の記録と競争をしていることがおおい。なによりすべてのスポーツが競争をしている。あと、子育てして痛感したけど、子供達はとにかく競争がしたい。かけっことか、持っている持ち物のすごさとか。とにかく自分の優位性を証明したがる。まあ、本能なのかな。
この競争のために、すべてのプレイヤーは自分の技術をみがく。
「運」は、宝くじとか、競馬とかギャンブルの賭け事などが分かりやすい。これは競争とは逆に自分の技術を磨くのではなく、自分以外のことに勝利の要因をさがす。たとえば占いのラッキーナンバーのクジを買うとか。犬のウンコをふんだら「運がついた」といってその日にクジを買うとか。勝っても負けてもその要因は自分ではない。運勢など自分よりもより大きな流れを意識する活動で、その流れを自分でコントロールはしない。
「模擬」
おままごと、演劇で他の人を真似たり、お祭りなどで神や精霊となって祭りの参加者を脅かしたり精霊として舞うことなど。他に仮面をつけてやるフェスティバルなど。自分でない何かになって振る舞うこと。
「めまい」
ブランコ、バンジージャンプ、ジェットコースターなど、早い動きをおこなっておもに三半規管をくるわせ、日常的な理性をはずす行為。子供達をみてると何人かで手を繋いで輪になってグルグルと走り回るあそびをすることがあるし、伝統的な儀式で何日間も同じ踊りを繰り返すような風習もある。広い意味で、飲酒や薬物摂取もこれにあたると思う。
「競争と運」の組み合わせ
現在、よくやるゲームのほとんどは競争と運の組み合わせのものがおおい。ポーカーなら最初に配られるカードやどのカードが次にくるかなどは運にまかせられるが、配られたカードをどう使うかは個人の技術が求められており、プレイヤーはその技術を競争している。麻雀などもそう。
この競争と運のバランスをどうとるかはゲームによってちがう。ウノはかなり運要素が強い。将棋はほぼ運要素が入らない競技になっている。大富豪(大貧民)は基本ルールだけなら運要素が強いが、8切りなどの追加ルールを足すことで運の要素を減らして技術(競争)要素を強めている。プレイする人もどちらの要素が多い方が好きといった好みがあるでしょう。
「とめまい」の組み合わせ
昔の部族とかのお祭りや儀式は「模擬」と「めまい」の組み合わせでできている。お祭りではお酒を飲んだり、(昔であれば)大麻などの催眠性のある植物を摂取したりしてさわいだり、集団で酔っ払い、ある特定の人たちが仮面をかぶり精霊のふりをしたりして、人々をおどかしてまわる、などの儀式が世界中である。
どちらかというと、「模擬&めまい」の遊びが未文明社会でよくみられ、「競争&運」の遊びの方が文明社会でよく見られる。
パチンコは「運」と「めまい」の組み合わせ。当たるかどうかは当然「運」だけど、騒がしい音やタバコの煙が充満した空間(いまはそうじゃないのかもしれないけど)、点滅する画面やライトで、身体的に非日常的な状態となっている。運もめまいも、個人の能力から離れた方向性の遊び。
すべての要素をあわせたものは
そして、最初に僕がネットでみた4要素についての記事には、次のような例えがありました。この例えは『遊びと人間』には書かれてなかったのでそのブログ著者さんのオリジナルかもしれない。その記事がなんだったかはわからなくなってしまった。
・4つの要素をつかって、すべり台を最高の遊具にしよう。
滑り台にはもともと「めまい」の要素があるので残りの3つを追加する。
1つめ、「模擬」を追加する。
滑り台のかたちをゾウにする。ゾウの背から、鼻をすべっているような形。
2つめ、「競争」を追加する。
すべるレーンを複数にして、子供たちが競争できるようにする。
3つめ「運」を追加する。
これはランダム要素をいれるということで、すべっている最終に水が飛び出る穴をいくつもつくり、その水が出るタイミングはランダムにする。
こうして「ゾウの形をして、レーンが何個もあって、途中に水がランダムに飛び出す滑り台」は4つの要素をあわせもった最強の滑り台となる!
うん、たしかに。というか、僕たちはなにか面白いものを作ろうとする時に、基本的にこの考えを使ってるんだね。ジェットコースターも車体にドラドンのイラストを描いて「めまい+模擬」にしたり。だたのコマの取り合いのチェスでもナイトやキングという実在する役職をたして模擬を追加したり。
テレビゲームが最強か?
それで現代の遊びで一番面白いのってテレビゲームじゃない?と思いました。RPGとか、なんでも大体はストーリーがあって「」、敵を倒してレベルアップしたり、オンラインのランキングがあって(競争)、画面がチカチカ光ったりして(めまい)、敵がどんな攻撃してくるのかわからなかったり予想したり(運)。VRとかになると没入感がより強い(模擬)ですし。あらためて、エンタメとしてテレビゲームってすごいと思いました。
平等の精神
ここからは『遊びと人間』のカイヨワさんはぜんぜん語らず、文庫本の解説で少し触れられていた「平等」の考えについて。僕も読みならが「これって平等の考えがあるよな」と思っていたので僕の考えを書かせてもらう。
「競争」と「運」はそれぞれ違う形で、人々の平等を実現しようとしていると思う。
そもそも遊びというは平等を実現したうえで成り立っているとも言えるはず。
オリンピックで100M走するときとかって、そのレーンにならんだ人たちは、日常生活における、人種の差とか貧富の差をすべて競技場の外においてきて、個人の肉体(そして鍛錬)のみを比較する遊びになっている。その競技に必要な技術のみを比べる遊びをすることで、競技者はすべて同じスタートラインに立っているんだっていう平等を感じることができる。
それで、高いスポーツウェアを着た方が勝てるとか、人種によって採点が変わるってことが起きてしまうと、それはやめようとってなる。
運は別の形で平等を求めている。宝くじを買って当たるかどうかは、人種や貧富によって変わったりはしない。
(ここから差別的な表現を含んだ書き方をします)
普段、仕事をがんばれずにお金持ちになれない人は、宝くじを買って一発逆転を狙う。これは個人の能力という競争では自分が勝てないので、そういう能力が及ばない戦いに参加することで、勝てるかもしれないという気持ちになる。宝くじやビンゴゲームはもっとも能力を使わないという意味で人々が平等に戦える遊びだといえる。
でも少しは自分の能力が高いことも証明したいので、競馬とかで勝ち馬を予想するとかをしだす。勝てば自分には予想する能力が高いと言えるし、負けても運が悪かったと言って自分を責めずに済む。
文明化された社会で「競争&運」の遊びが増えるのは、人々が平等な社会を実現しようとしてきた結果というか、法律を作ったりして社会を安定させようとしてきたことと、この遊びが経ていくことは似た動機なんだと思う。
逆に「模擬&めまい」は現代では弱くなっていると思う。なまはげなどの精霊になるお祭りは昔は多かったけど、昔はほぼ全員が真剣にその精霊だと思っていたかもしれないけど、いまの人はそれが人だって認識の方が強い。
それに麻薬とかの薬物を取り締まったり、お酒を飲む人がへっていたり、タバコを吸う人も減ってきているのも、めまいのあそびが社会的に弱くなっているのかなとも思う。まあ、どちらかというと遊びというよりは日常生活に支障をきたすことが多いからダメになってるんだって言えば、薬物お酒タバコは(日常と切り離した)遊びではないってことか。決められた場所でたしなむ分にはいいですよね。
映像作品について
それで映像はどうなんだろうって考えるわけです。
映画とかドラマはストーリーがあってキャラクターがいるのでほぼ全ての映像作品が「模擬」をしているって解釈できると思う。見る人も模擬を楽しんでいる。
クラブでVJが流すような映像は逆に「模擬」の要素が少なくて「めまい」要素が強いと思う。画面の中で光が明滅したり、早い動き(高速道路を進む映像の早回しとか)があったり。
「めまい」というのは映像だと、はげしいアクションシーンとか、ワンカットで長回しのアクションシーンかなと思った。3DCG映画の『タンタン』のワンカットとか見ててジェットコースターに乗っているような感覚になる。個人的にすごい好き。ジェットコースターが好きってのもあるかも。
それと、番組「プチプチ・アニメ」(NHK、Eテレの5分番組。ほぼすべてコマ撮りアニメーション)のことを考えると、たくさんお話がありますが、けっこうな割合でお話の後半にドタバタ劇があるんですよね。キャラクターが追いかけっこして走り回ったり。あれも「めまい」って言えるんじゃないかな。プチプチアニメは未就学児が対象ということもあって、たぶん子供は「めまい」が好きってのがあるのかも。こどもは走り回ったり叫んだりが好きですから。
おまけの考察。「アイドルオーディション」
『遊びと人間』ではいろいろな遊びをとりあげて考察するのですが、その中でかなり面白いと思ったやつ。
ミスコンとかの公開オーディションについて、すごい偏った見方かもしれないけど納得いった解説。
ミスコンとか美人コンテストなどで女の子が優勝して有名人になるコンテスト。最近はそういうのも流行ってないかな。そういうコンテストの構成要素で強いのは「競争」ではなく「運」である、という話。
あれで優勝する女の子を応援する観客たちというのは、できれば女の子に特別な能力を持っていてほしくないと思っている。女の子は、田舎の平凡な家庭の生まれで、なんの特技も持ってなくて、家族の誰かが勝手に応募しちゃっただけで、人前に出てしゃべるのが苦手なくらい自分に自信がなくて、そんな能力を持たない子が最終的に運によって優勝してスポットライトを浴びて、スターダムにのし上がっていってほしいと、観客は思っている。運によって成功してほしい。なぜなら、その成功体験を見ることで、能力の低い自分もいつの日か成功できるかも、と思えるから。そして、女の子のことを素直に応援できる。
もしミスコンで優勝した子が、金持ちの生まれで、ピアノもバレエも得意で、日々の生活の中でさまざまな修行をした上で優勝しましたってなると、それは「競争」の遊びになってしまって、能力が低く努力を頑張れない自分が共感できない。別世界の人の成功体験となってしまう。それはつまらない。応援できない。個人の技術を比べる競争には参加したくない。
という話でした。
すべてのコンテスト(そして観客)がそうってわけじゃないですが。そういうものもあるだろうなって。
僕個人のことを言うと
僕は、自分の技術とか能力を高める、というのが好きなので、競争の遊びが好きです。ウノとか桃鉄とか運の要素が多いと、どう楽しんでいいのかわからないんだよね。負けた時に「あちゃー、ざんねん!」って割り切れないっていうか。
運要素の遊びを下に見てるとかじゃないですよ。遊びも人もタイプがあるよねってことで。僕が好きは遊びは競争がメインで、運もあっていいけど少なめだったり、運をのりこえる技術がある遊びが好き。カタンとか、そうかな。
